May 21, 2018

漢字三千年展 「その5」 秦の始皇帝

2018_0521_164552img_2407
中国を統一した秦の始皇帝は各地を視察し、自分の功績を刻んだ石碑を建てた。

「史記」には紀元前219年に始皇帝が嶧山(えきざん)に上った事が記されている。―嶧山や泰山7か所に建立。

刻まれた文字の書体は全国に通用させる為に考案された小篆(しょうてん)で、始皇帝のブレーンだった李斯(りし)が書いたとされる。

後世の人々が地元の住民にたびたびその碑の拓本を求めたため、耐えかねた住民が碑を燃やしてしまったという。

その後は模刻されたものの拓本が今に伝わる。

画像は秦嶧山刻石拓片(しんえきざんこくせきたくへん)です。

全国を統一した始皇帝の秦時代と言えば、さまざまな様式で存在していた文字や文書が統一され・・・、現在にも通じるような形で多く残っている事は意義深い。

日本の弥生時代に当たる頃の中国の行政や法律、文化などの雰囲気を具体的に知る事が出来る。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

April 08, 2018

漢字三千年展 「その4」 曹全碑

2017_0610_115800img_1346
 久し振りの掲載・・・、昨年の7月以来です。

下記は「その3」の甲骨文字の一文で復習です。

亀の甲羅や動物の骨に刻まれた最古の漢字と言われる甲骨文字や、秦の始皇帝によって統一された漢字など、

時代とともに字体や記される内容は変化し、権威の象徴としても利用された。

雨が降るかどうかを占った内容が書かれているとか・・・、現在使われている漢字は甲骨文から始まっているのです。

「その4」は青銅器、秦の始皇帝でしたが下記に変更し秦の始皇帝は後日にします。

「その4」は「曹全碑」(そうぜんひ)で、画像は漢曹全碑拓片で・・・、曹全は敦煌の生まれです。

 「曹全碑」は後漢時代の中平2年(185)に建立された石碑です。

端正かつ優美な隷書で書かれた、後漢を代表する石碑の一つです。

隷書を学ぶ為に手本として、日本にも江戸時代に拓本が伝わりました。

碑文は計20行、毎行45文字で、文中には曹全の死去に言及した箇所がないから、曹全の在世中に建てられた碑と考えられれています。

「曹全碑」は明の万暦年間に発見された時はほとんど傷んでいなかったが、清代に断裂がはいって、いくつかの字が失われたようです。

それでも漢代の石碑のなかではもっとも完全なものと言えるようです。

書体は極度に洗練された風格をもつ、芸術的に完成の域に達した隷書であると古来評判が高いです。

隷書を学ぶ書道人は必ず「曹全碑」を勉強、手本としています。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

July 09, 2017

漢字三千年展 「その3」

2017_0610_112533img_1279
「その3」は甲骨文字についてです。

亀の甲羅や動物の骨に刻まれた最古の漢字と言われる甲骨文字や、秦の始皇帝によって統一された漢字など、時代とともに字体や記される内容は変化し、権威の象徴としても利用された。


2017_0610_112548img_1280

2017_0610_112558img_1281

2017_0610_112740img_1282

2017_0610_112750img_1283
 先にも話しましたように一番古い文字が書かれているのは牛の骨、亀の甲羅で、これを甲骨文と呼び、紀元前13世頃とされている。

この頃はすべての事を占いで決めおり、その占いは動物の骨を使っていた。

その占う事も動物の骨に書いていた、そこに漢字が刻まれていた。

書のルーツとなる甲骨文が生まれたのは中国 殷(いん)の時代(紀元前17世紀頃~紀元前11世紀頃)です。

当時は亀の甲羅や動物の骨の裏側に溝を作り、骨を焼いて表にひびを走らせ、そのひびの形で占うというものだったようです。

その内容と結果を刻んだのが甲骨文です。

例えば雨が降るかどうかを占った内容が書かれているとか・・・、現在使われている漢字は甲骨文から始まっているのです。

「その4」は青銅器、秦の始皇帝です。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

June 18, 2017

漢字三千年展 「その2」

2017_0610_111203img_1266

2017_0610_111247img_1267
 最初に『漢字の力』と言うテレビ解説を聞き、「牛耳を執る」=「ぎゅうじをとる」 と 言う言葉の由来を知りました

「温県盟書」=おんけんめいしょ は 河南省温県から発見された盟書。―「牛耳をとる」儀式の書~左画像

春秋戦国時代には各地の諸侯が同盟を結んだ。

その際の契約書を盟書と言い、この盟書は河南省温県の遺跡で発見された。

石の表面に墨で文字が書かれており、「韓」を建立した一族が結束を固める為、建国前の紀元前497年に作ったものとみられる。

当時、契約の儀式では盟主が牛の耳をつかんで、血を採って唇に塗り、その牛と盟書を地中に埋めたとされる。

そこから「牛耳をとる」「牛耳る」という言葉が生まれ、組織の主導権を握ったり支配したりする意味でつかわれる。

インターネットより
同盟・団体などの盟主・支配者となる。また、団体・組織を自分の意のままに動かす。主導権を握る。

「牛耳る」は近在の豪農の主人/社会百面相 魯庵」 〔中国春秋戦国時代に諸侯が同盟を結ぶ儀式で、盟主となる者が牛の耳を割いて血を採り、これを順番にすすって同盟を誓ったという。

団体や組織を支配し、思いのままに動かす。―牛耳を執る。

「牛耳る」の言葉のルーツを初めて知り、まずそこからスタートとなりました「漢字三千年展」
「その3」は甲骨文字他について掲載します。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

June 11, 2017

漢字三千年展

2017_0610_110002img_1257

2017_0610_134839img_1461
 日本で初めての本格的な「漢字」をテーマにした展覧会 「漢字三千年・漢字の歴史と美」 が4月29日から今日迄(6/11)、県立近代美術館(長岡市)で開催されています。

昨日午前から午後にかけて3時間余観覧して来ました。

漢字は、三千数百年前に中国文明から生まれたと言われています。

動物の骨や亀の甲羅に刻まれた最古の文字と言われる甲骨文字、素材も甲骨から青銅器、石や竹、絹、そして紙へと変わっていきます。

漢字は単なる情報伝達の手段から、その美しさを鑑賞する「芸術」に迄発展していきます。

書聖と言われる 王義之(おうぎし)の拓本など歴史の名書、歴史上の人物が書いた作品などが一堂に公開されていました。

楽しめる展覧会と宣伝されていましたが・・・、予想以上の魅力ある展覧会、大変勉強になりました。

最後に「拓本」の体験コーナー で 銅銭他 紙を当てて鉛筆でこすって文字を浮かび上がらせる拓本作りを楽しんで来ました。―右画像

後日 「その2」より、10回位の予定 で 連載していきます。

 

| | Comments (0) | TrackBack (0)

January 29, 2017

長岡 「近代美術館」&「科学博物館」 -その2-

2017_0109_120623img_0984
 江戸時代末、越後(新潟県)では二人の書人が輩出されました。

幕末の越後が生んだ2書人の筆致、比べて楽しむ「良寛と巻菱湖」展でした。

国の重要文化財に指定されている屏風(びょうぶ)や掛け軸などが並び、2人の個性あふれる筆致を楽しみました。

出雲崎に生まれた良寛は禅僧として清貧の思想を貫き、柔和で伸びやかな書が特徴・・・、その独自性が高く評価されています。

巻菱湖は現在の新潟市西蒲区出身、巻の鎧潟付近で遊び育ったと言われています。

書家となってからは、門弟一万人と言われ、その書風は全国を風靡しました。

「幕末の三筆」と称され、楷書、草書、行書の手本を数多く残しました。

会場には、良寛の漢詩や丸い板に書いた「心月輪」、巻菱湖の額や端正な楷書で書かれた唐詩などが展示されています。

幕末の同時期に新潟が輩出した二人の書人の書を比較し、2人の生き方がそれぞれの書に表れていていると感じました。

単体の一字一字を正確に書いている巻菱湖、形にとらわれず伸び伸び書いている良寛、対称的な二人の作品を同時に鑑賞出来るのは有難い・・・、企画としてはビックリでした。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

January 09, 2017

長岡 「近代美術館」&「科学博物館」

2017_0109_120541img_0982

2017_0109_152013img_0985
 今日(1/09)、長岡の県立近代美術館「良寛と巻菱湖」展 と 市科学博物館「長岡の偉人展」「牧野家資料館」を鑑賞しました。

越後が生んだ幕末の二人の書人⇒今日19時前のNHKのニュースにも紹介されていました「良寛と巻菱湖」展です。―左画像

「長岡偉人展」⇒長岡藩軍事総監・河合継之介や連合艦隊司令長官・山本五十六の書や掛軸です。

科学博物館3階、長岡藩主「牧野家資料館」⇒歴史観 又 説明を聴く事が出来ました。―右画像

美術館、博物館それぞれ約1.5~2時間 ゆっくり鑑賞が出来、どちらも素晴らしかったです。

内容は「その2」で掲載します。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

December 28, 2016

北方文化博物館(中林梧竹展) その4

2016_1103_115725img_0627

2016_1103_115420img_0622

2016_1103_115612img_0625

2016_1103_115656img_0626
集古館(博物館日記より)は、博物館の西北にある白壁と瓦の土蔵造りの建物です。

昔は飯米蔵として多い時で2,000俵の米俵が積まれていたと言われています。

現在は、歴代の当主達が収集した書・画・古美術品などが展示されており、伊藤家の優雅な暮らしぶりを知ることができます。

4ヶ月毎に企画展が開催されているようです。

当館の所蔵品は、歴代当主により蒐集された書画や陶磁器、漆器は勿論、更に発掘調査等による考古資料や寄贈品。

日本はもとより中国や朝鮮、エジプト、ギリシアにまで及ぶ幅広いジャンルの美術工芸品で、その総数は6,000点以上にもなるとの事です。

書蹟500点、考古資料300点、民族・歴史資料2,500点、文献・図書1,500点にも及ぶ膨大な数の所蔵品は、今も一部が来館者に公開され、あるいは蔵の中でひっそりと息をひそめているようです。

数々の所蔵品の中から、企画展示品は良寛さんです。―4枚の画像、普段なかなか鑑賞出来ませんです。

他に掲載したい画像等「その5」で考えました が このシリーズはこれで終りにします。

四季が楽しめる北方博物館、今度春に行って観たいと思います。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

November 23, 2016

北方文化博物館(中林梧竹展) その3

2016_1103_113753img_0613

2016_1103_113810img_0614

2016_1103_113650img_0611

2016_1103_105943img_0590
美しい庭園に面した南面の座敷は、明治20年(1887年)から2年かけて建てられる。

東側に大玄関があり、柱・天井・式台・戸は全て欅(けやき)造りで、特に式台と戸は一枚板で、当時の建材に贅をこらした建築様式がしのばれます。

南側の雨戸は26枚あり、全て左側の戸袋に納まってしまうという見事な構造です。

座敷の欄間のならびには柱が1本も無く、上から釣ってあるので釣欄間と呼ばれています。→画像右端左上

また土縁から見上げると、長さ15間半(28.18m)の一本の杉の丸桁があります。→画像右端右上

これは遠く会津の三島町の山林付近から、いかだで運ばれてきたとの事です。 →陸では一時的に途中障害物を撤去して運んだと聞いた。

大庭園中央泉地に各地の名石(鞍馬石他)を配した、鎌倉・室町の古式によって造られた回遊式庭園です。

庭園内には5つの茶室が点在する。

この庭は、京都銀閣寺ゆかりの庭師(柏崎出身)により5年がかりで造られたそうです。

「その4」は集古館展示の良寛「書」 他を掲載します。


| | Comments (0) | TrackBack (0)

November 06, 2016

北方文化博物館(中林梧竹展) その2

2016_1103_105614img_0586

2016_1103_110105img_0591

2016_1103_105549img_0585
 
 豪邸の床の間を飾る中林梧竹展

1827年(文政10年)~1913年(大正2年)、佐賀県小城市出身の書道家中林梧竹(なかばやしごちく)展を鑑賞しました。

日下部鳴鶴、巌谷一六と並び明治の三筆と称された書家です。

佐賀県生まれですが、新潟にもその作品が残る中林梧竹さん・・・、梧竹の書を床の間で鑑賞したい!という思いから梧竹の会新潟連絡事務局のみなさんによる梧竹展が開催されたようです。

造形の美しさ、面白さも目を引く梧竹の書。秋深まる北方文化博物館のお座敷にピッタリです。


2016_1103_105703img_0587

2016_1103_105749img_0588

2016_1103_105532img_0584
 立派な作品の数々です。

5点の作品ご鑑賞下さい。

好きな書風ですので勉強して・・・、書いてみたいと思います。

「その3~」 大庭園、集古館展示の良寛「書」 を掲載予定です。


| | Comments (0) | TrackBack (0)