June 18, 2017

漢字三千年展 「その2」

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 最初に『漢字の力』と言うテレビ解説を聞き、「牛耳を執る」=「ぎゅうじをとる」 と 言う言葉の由来を知りました

「温県盟書」=おんけんめいしょ は 河南省温県から発見された盟書。―「牛耳をとる」儀式の書~左画像

春秋戦国時代には各地の諸侯が同盟を結んだ。

その際の契約書を盟書と言い、この盟書は河南省温県の遺跡で発見された。

石の表面に墨で文字が書かれており、「韓」を建立した一族が結束を固める為、建国前の紀元前497年に作ったものとみられる。

当時、契約の儀式では盟主が牛の耳をつかんで、血を採って唇に塗り、その牛と盟書を地中に埋めたとされる。

そこから「牛耳をとる」「牛耳る」という言葉が生まれ、組織の主導権を握ったり支配したりする意味でつかわれる。

インターネットより
同盟・団体などの盟主・支配者となる。また、団体・組織を自分の意のままに動かす。主導権を握る。

「牛耳る」は近在の豪農の主人/社会百面相 魯庵」 〔中国春秋戦国時代に諸侯が同盟を結ぶ儀式で、盟主となる者が牛の耳を割いて血を採り、これを順番にすすって同盟を誓ったという。

団体や組織を支配し、思いのままに動かす。―牛耳を執る。

「牛耳る」の言葉のルーツを初めて知り、まずそこからスタートとなりました「漢字三千年展」
「その3」は象形文字他について掲載します。。

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June 11, 2017

漢字三千年展

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 日本で初めての本格的な「漢字」をテーマにした展覧会 「漢字三千年・漢字の歴史と美」 が4月29日から今日迄(6/11)、県立近代美術館(長岡市)で開催されています。

昨日午前から午後にかけて3時間余観覧して来ました。

漢字は、三千数百年前に中国文明から生まれたと言われています。

動物の骨や亀の甲羅に刻まれた最古の文字と言われる甲骨文字、素材も甲骨から青銅器、石や竹、絹、そして紙へと変わっていきます。

漢字は単なる情報伝達の手段から、その美しさを鑑賞する「芸術」に迄発展していきます。

書聖と言われる 王義之(おうぎし)の拓本など歴史の名書、歴史上の人物が書いた作品などが一堂に公開されていました。

楽しめる展覧会と宣伝されていましたが・・・、予想以上の魅力ある展覧会、大変勉強になりました。

最後に「拓本」の体験コーナー で 銅銭他 紙を当てて鉛筆でこすって文字を浮かび上がらせる拓本作りを楽しんで来ました。―右画像

後日 「その2」より、10回位の予定 で 連載していきます。

 

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January 29, 2017

長岡 「近代美術館」&「科学博物館」 -その2-

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 江戸時代末、越後(新潟県)では二人の書人が輩出されました。

幕末の越後が生んだ2書人の筆致、比べて楽しむ「良寛と巻菱湖」展でした。

国の重要文化財に指定されている屏風(びょうぶ)や掛け軸などが並び、2人の個性あふれる筆致を楽しみました。

出雲崎に生まれた良寛は禅僧として清貧の思想を貫き、柔和で伸びやかな書が特徴・・・、その独自性が高く評価されています。

巻菱湖は現在の新潟市西蒲区出身、巻の鎧潟付近で遊び育ったと言われています。

書家となってからは、門弟一万人と言われ、その書風は全国を風靡しました。

「幕末の三筆」と称され、楷書、草書、行書の手本を数多く残しました。

会場には、良寛の漢詩や丸い板に書いた「心月輪」、巻菱湖の額や端正な楷書で書かれた唐詩などが展示されています。

幕末の同時期に新潟が輩出した二人の書人の書を比較し、2人の生き方がそれぞれの書に表れていていると感じました。

単体の一字一字を正確に書いている巻菱湖、形にとらわれず伸び伸び書いている良寛、対称的な二人の作品を同時に鑑賞出来るのは有難い・・・、企画としてはビックリでした。

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January 09, 2017

長岡 「近代美術館」&「科学博物館」

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 今日(1/09)、長岡の県立近代美術館「良寛と巻菱湖」展 と 市科学博物館「長岡の偉人展」「牧野家資料館」を鑑賞しました。

越後が生んだ幕末の二人の書人⇒今日19時前のNHKのニュースにも紹介されていました「良寛と巻菱湖」展です。―左画像

「長岡偉人展」⇒長岡藩軍事総監・河合継之介や連合艦隊司令長官・山本五十六の書や掛軸です。

科学博物館3階、長岡藩主「牧野家資料館」⇒歴史観 又 説明を聴く事が出来ました。―右画像

美術館、博物館それぞれ約1.5~2時間 ゆっくり鑑賞が出来、どちらも素晴らしかったです。

内容は「その2」で掲載します。

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December 28, 2016

北方文化博物館(中林梧竹展) その4

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集古館(博物館日記より)は、博物館の西北にある白壁と瓦の土蔵造りの建物です。

昔は飯米蔵として多い時で2,000俵の米俵が積まれていたと言われています。

現在は、歴代の当主達が収集した書・画・古美術品などが展示されており、伊藤家の優雅な暮らしぶりを知ることができます。

4ヶ月毎に企画展が開催されているようです。

当館の所蔵品は、歴代当主により蒐集された書画や陶磁器、漆器は勿論、更に発掘調査等による考古資料や寄贈品。

日本はもとより中国や朝鮮、エジプト、ギリシアにまで及ぶ幅広いジャンルの美術工芸品で、その総数は6,000点以上にもなるとの事です。

書蹟500点、考古資料300点、民族・歴史資料2,500点、文献・図書1,500点にも及ぶ膨大な数の所蔵品は、今も一部が来館者に公開され、あるいは蔵の中でひっそりと息をひそめているようです。

数々の所蔵品の中から、企画展示品は良寛さんです。―4枚の画像、普段なかなか鑑賞出来ませんです。

他に掲載したい画像等「その5」で考えました が このシリーズはこれで終りにします。

四季が楽しめる北方博物館、今度春に行って観たいと思います。

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November 23, 2016

北方文化博物館(中林梧竹展) その3

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美しい庭園に面した南面の座敷は、明治20年(1887年)から2年かけて建てられる。

東側に大玄関があり、柱・天井・式台・戸は全て欅(けやき)造りで、特に式台と戸は一枚板で、当時の建材に贅をこらした建築様式がしのばれます。

南側の雨戸は26枚あり、全て左側の戸袋に納まってしまうという見事な構造です。

座敷の欄間のならびには柱が1本も無く、上から釣ってあるので釣欄間と呼ばれています。→画像右端左上

また土縁から見上げると、長さ15間半(28.18m)の一本の杉の丸桁があります。→画像右端右上

これは遠く会津の三島町の山林付近から、いかだで運ばれてきたとの事です。 →陸では一時的に途中障害物を撤去して運んだと聞いた。

大庭園中央泉地に各地の名石(鞍馬石他)を配した、鎌倉・室町の古式によって造られた回遊式庭園です。

庭園内には5つの茶室が点在する。

この庭は、京都銀閣寺ゆかりの庭師(柏崎出身)により5年がかりで造られたそうです。

「その4」は集古館展示の良寛「書」 他を掲載します。


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November 06, 2016

北方文化博物館(中林梧竹展) その2

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 豪邸の床の間を飾る中林梧竹展

1827年(文政10年)~1913年(大正2年)、佐賀県小城市出身の書道家中林梧竹(なかばやしごちく)展を鑑賞しました。

日下部鳴鶴、巌谷一六と並び明治の三筆と称された書家です。

佐賀県生まれですが、新潟にもその作品が残る中林梧竹さん・・・、梧竹の書を床の間で鑑賞したい!という思いから梧竹の会新潟連絡事務局のみなさんによる梧竹展が開催されたようです。

造形の美しさ、面白さも目を引く梧竹の書。秋深まる北方文化博物館のお座敷にピッタリです。


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 立派な作品の数々です。

5点の作品ご鑑賞下さい。

好きな書風ですので勉強して・・・、書いてみたいと思います。

「その3~」 大庭園、集古館展示の良寛「書」 を掲載予定です。


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November 04, 2016

北方文化博物館(中林梧竹展)

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 昨日(3日文化の日)、豪農の館北方文化博物館 と 豪邸の床の間を飾る中林梧竹展 を 鑑賞しました。 

中林梧竹展は「その2」で掲載、最初に北方文化博物館について 紹介したいと思います。

北方文化博物館とは

越後の蒲原平野には信濃川と阿賀野川の大河があり、阿賀野川沿いの横越町(現新潟市)にある戸数三百余りの集落を「沢海(そうみ)」と言います。

ここ沢海の歴史は古く江戸時代の初期、慶長15年(1610年)から77年間は沢海城という城があり、11,000石のささやかな城下町として栄えていたと伝えられています。

沢海城の築城以前は囲いの堤もなく、洪水の際には一面が水に押し流され、水が引き落ちても窪地に水がたまり、沢のようになるので「沢海」と名付けられたと言われています。

その後、沢海は天領となり、代官所、続いて旗本小浜の知行所が置かれていましたが、明治2年(1870年)に藩籍奉還となり、武家による社会は終わりを告げました。

このような歴史の中、江戸時代中期、農から身を起こし、やがて豪農への道を歩み、代を重ねて巨万の富を築いていった一族が伊藤家です。

全盛期には、1市4郡60数ヶ町村に田畑1,370町歩(1,372ha)を所有し、越後随一の大地主として、その名は県下に鳴り響いていました。

しかし、時代は変わり 昭和21年農地解放により、これらの広大な農地は伊藤家の所有を離れることになります。

この伊藤家の屋敷と住宅が、現在の北方文化博物館で、別名「豪農の館」と呼ばれています。

現在では、かつてのお城も代官所も、小浜時代の知行所も跡形もなく、ただ、かつて豪農の館、伊藤家だけが、昔の面影そのままに、数々の歴史を秘めて残っています。

長年の風雪に耐え、往時の面影をそのままに豪農伊藤家の暮らしを今に伝えています。

伊藤家から1時間以上(約45㎞)の弥彦神社、他の地を踏まずにお参り出来たと言うから驚きです。

左画像は会津八一先生が書かれたと聞きました。

右画像は美しい庭園に面した大広間 座敷、床の間を挟んで7つの部屋があり、畳の数は全部で100枚にも及ぶと言うから凄いです。

「その2」は明治の3筆で有名な中林梧竹の「書」 と 大庭園です。

集古館展示の良寛「書」 も 「その3」 又は 「その4」に掲載予定です。


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August 14, 2009

「水と土の芸術祭」

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 新潟市歴史博物館に開催されている 「水と土の芸術祭 」を見学しました。 蒲原平野の20世紀-水と土の近代-です。

信濃川、阿賀野川という日本有数の大河川の下流に広がる蒲原平野、たび重なる洪水や水はけの悪さに悩まされ続けた。

20世紀に入ると、人々は近代的な土木技術を利用して劣悪な地形条件を克服していきます。

食糧増産を目指す国家プロジェクトと連携、土地改良事業が平野の各地で進められていきます。

その結果、水路や農道で直線的に区画された乾田が広がる田園風景が形成されていきます。

第二次世界大戦後、土地改良事業が進んだ耕地には、動力を用いた農機具が次々に導入されていきます。

そして1550~60年代に蒲原平野は稲作農村地帯としての黄金時代を迎えます。

現在私たちが目にする田園風景の裏側に、さまざまな困難を克服してきた歴史が存在する。

本展覧会が実物資料や模型を通して紹介しています。~勉強になるイベントでした。

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歴史博物館は旧新潟税関庁舎跡です。

旧新潟税関庁舎、石庫(いしぐら)、旧第四銀行住吉町支店を見学しました。


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December 16, 2007

『風林火山』PART5

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 某雑誌 伏兵力を生かす”風林火山”を読んで…、まとめてみました。

社内外に吹く”風”を感じ取り、”林”の中に潜む成長の種を見つけ出す、縁の下の力持ちのやる気に”火”をつけ、前倒しにとらわれず”山”のような資金を投ずる。

某メーカー、90年代初頭から、一般的な鉛電池よりエネルギー密度が高いリチウムイオンを開発してきた話。

90年代後半不況で電池開発はリストラされると思う状況であった。

しかし画期的な電池が必要になるという時代の”風”を感じとった。

2,000年開発部隊から”林”のように立ち並ぶテーマの中から電池の開発という種を拾い上げた。

そして「思う存分開発してくれ」と檄を飛ばし、開発チームのやる気に”火”をつけた。

さらに研究を一気に進めるべく、01年後半には前年度の5倍近い”山”のような開発費を投入した。

伏兵力を生かす”風林火山”の取り組みによって電池開発を軌道にのせた話です。

最も重要な点は経営者が部下や事業の潜在能力を見抜けるか否かである。

勘助がいかに優秀でも、信玄が登用していなければ活躍の場がなかったであろう。

社員の能力を見極めて、それに合った仕事を与えるという上層部の眼力、その眼力こそが求められている。

社内に埋もれる伏兵の力を的確に見抜ける経営者だけが、社員のモチベーションを高めることが出来る。

組織の中で眠っている伏兵の力を生かす経営こそ、危機を乗越える原動力となる。

社員の潜在能力⇒トップの”現場目線”が適材適所を生む!

 謙信か?信玄か?
謙信は不退転の決意で川中島へ乗り込み、信玄もついに正面切っての激突を決意、日本史上かつてない大激戦!

今日、大河ドラマも最終回 川中島決戦です。…楽しみにしています。

PART6は 山本勘助キツツキ戦法が失敗したことを悔い、責任をとるかのような死………etc。

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