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March 08, 2015

松山城城主と長岡京遷都その10

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首題その9(2/22)より~【歴史】の最後の行です。

791年(延暦10年)平城宮の諸門を解体して長岡宮に運ばせたものの、実際には平安宮にそのまま転用されている事から、延暦10年の段階で既に長岡京の廃止決定と新たな都の計画が進められていたと考えられている

【概要】、【歴史】、に続き最後は【発掘調査】です。

【発掘調査】
近年まで「幻の都」とされていたが、1954年(昭和29年)より、高校教員であった中山修一(後、京都文教短期大学教授)を中心として発掘が開始された。

翌1955年(昭和30年)、大内裏朝堂院の門跡が発見されたのを皮切りとして、1962年(昭和37年)大極殿跡が発見され、今日までにかなり発掘調査が進む。(当該地域で急速な宅地化、工業地化が進み、緊急調査を強いられ続けた側面もある)

1964年(昭和39年)に国の史跡に指定された。

1967年(昭和42年)内裏内郭築地(ついじ)回廊北西部が確認され、1979年(昭和54年)内裏南方の重要官衙の存在を証明する遺構として大規模な築地塀が発見された。

発掘の結果わかったことは次の通りです。

*未完成で放棄されたとした従来の定説と異なり、難波宮や他の旧宮、平城京の建造物を移築し、かなり完成した姿であった

*平城京、平安京と並ぶ京域を持つ都であった。

以上で長岡京遷都、【概要】、【歴史】、【発掘調査】について終了です。


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