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February 22, 2015

松山城城主と長岡京遷都その9

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首題その8(1/25)より~【概要】の最後の行です。
桓武天皇は自らの宮殿を街より15mほど高い地に築き、天皇の権威を目に見える形で示し、長岡京が天皇の都であることを強調した。

長岡京の駅を降りた事確か3回ですが、詳しく知りたいと思いながら今回になりました。―【概要】、【歴史】

【歴史】
 「続日本紀」に桓武天皇とその側近であった藤原種継のやり取りが記されている。

「遷都の第一条件は物資の運搬に便利な大きな川がある場所」とする桓武天皇に対し、種継は「山背国長岡」を奏上した。

長岡は種継の実家があり、支持基盤がある場所でもあった。

その他の理由として、
・既存仏教勢力や貴族勢力に距離を置く

・新京の周辺地域をおさえる、帰化人勢力との関係

・父の光仁天皇の代から天智系に皇統が戻った事による人心一新

・難波津の土砂の堆積によってここを外港としてきた大和国の東西間交通の接点としての地位を失い(難波津-大和国-鈴鹿関ルートの衰退)、代わって三国川(現在の神崎川)の工事の結果、淀川-山背国-琵琶湖・近江国のルートが成立したこと(長岡遷都と難波宮廃止が同時に決められている)

等の説がある。

784年(延暦3年)は甲子革令の年であり、桓武帝は天武系とは異なる天智系の天皇であった。

785年(延暦4年)の正月に宮殿で新年の儀式を行ったが、これは都の建築開始からわずか半年で宮殿が完成していたことを意味する。

その宮殿建設では、反対勢力や遷都による奈良の人々への影響を意識した段取りをする。

当時、宮殿の建設では元あった宮殿を解体して移築するのが一般的であったが、平城京から宮殿を移築するのではなく、難波宮の宮殿を移築した。

また、遷都の際に桓武天皇は朝廷内の改革に取り組み、藤原種継とその一族を重用し、反対する勢力を遠ざけた。

しかし、同年9月に造長岡宮使の種継が暗殺された。

首謀者の中には、平城京の仏教勢力である東大寺に関わる役人も複数いた。

そして桓武天皇の皇太弟早良親王もこの叛逆に与していたとされ幽閉・配流となり、親王は配流先に向かう途中、恨みを抱いたまま死去する。

親王の死後、日照りによる飢饉・疫病の大流行や、皇后ら桓武天皇近親者の相次ぐ死去、伊勢神宮正殿の放火、皇太子の発病など様々な変事が起こったことから、その原因を陰陽師に占わせたところ、早良親王の怨霊に因るものとの結果が出て親王の御霊を鎮める儀式を行う。

しかし、その直後と2ヵ月後の2度の大雨によって都の中を流れる川が氾濫し大きな被害を蒙ったことから、和気清麻呂の建議もあって遷都僅か10年後の794年(延暦13年)に平安京へ遷都することになる。

789年(延暦8年)の造営大工への叙位記事を最後に長岡京の工事に関する記録は姿を消している。

791年(延暦10年)平城宮の諸門を解体して長岡宮に運ばせたものの、実際には平安宮にそのまま転用されている事から、延暦10年の段階で既に長岡京の廃止決定と新たな都の計画が進められていたと考えられている

以上 【歴史】 について、主にインターネットから掲載しました。


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