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February 19, 2012

関ヶ原古戦場 NO.4

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小早川秀秋 は、ついに1万以上の軍勢を率いて寝返りを宣言!

目の前の西軍の部隊に襲いかかります!

ところが、これを予測していた人物がいました。石田三成 の盟友 「大谷吉継」 です。

彼は 小早川秀秋 や西軍の武将が寝返る事は薄々わかっていたようで、最初から 小早川秀秋 が寝返った時にそれを抑えられる位置に布陣していました。

そのため、小早川秀秋 の部隊はこれに迎撃されていきなり敗れ、押し戻されてしまいます。
(1600年 9月15日 昼前)

しかし、大谷吉継 の誤算はこの後でした。

彼と共に 小早川秀秋 を抑えられる位置に配置されていた部隊まで、小早川秀秋 と一緒に一斉に東軍に寝返ってしまったのです!

すでに彼らの所にも開戦前に寝返りの使者が訪れており、最初から内応している者もいたのです。

この結果、大谷吉継 の部隊は包囲されて集中攻撃を受け、孤軍奮闘するも壊滅。

大谷吉継 もついに戦場に消えてしまいます。

大谷軍 の消滅により、小早川秀秋 の軍勢は寝返った味方と共に再び進軍を開始、これで 「関ヶ原の戦い」 の優劣は、ほぼ決定しました。

関ヶ原の前線では、まだ両軍の一進一退が続いていました。

石田三成 は何とか 徳川家康 の本陣を襲おうと迂回部隊などを回しますが、これは 猛将・本多忠勝 によって撃破されてしまいます。

宇喜多秀家 の軍はまだ善戦を続けていましたが、小早川秀秋 の軍勢がやってきてこれに側面から攻められ始めたため、そのまま瓦解。

戦線が維持できなくなり、明石全登 をしんがりにして戦場から退却します。

島津軍 も最後まで善戦していましたが、ついに西軍が崩壊し始めたのを見て撤退を決意。

しかもなんと後ろに下がるのではなく、前面の敵を突き破って突き抜ける 「敵中突破」 を開始します!

そのあまりの突撃に、その前にいた 徳川軍 はあっという間に蹂躙され、側面にいた 福島正則 の部隊もあっけに取られて防ぐことが出来ず、徳川家の 井伊直政 が追撃するも負傷してしまいます。

その後、島津軍 は大きな被害を受けながらも戦場を突破し、そのまま本国へと帰還していきました。
(1600年 9月15日 昼)

こうして、残された 石田三成 の本陣も 徳川軍 の総攻撃の前についに崩壊・・・
「関ヶ原の戦い」 は決着が着くことになります。

1600年9月15日の昼、開戦から約半日。

様々な出来事があった日本最大の大合戦 「関ヶ原の戦い」 は、戦闘時間は約6時間ほどで決着となりました。

以上で完結ですが…、機会があったらゆっくり周辺を散策したいと考えています。

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