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October 23, 2011

大阪・堺 №4

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 大阪・堺 №4の最終回は千利休です。

左画像が堺市博物館前で、右画像が堺市役所の12階展望ロビーの展示品です。

博物館は閉館時間の後でしたので入館出来なかったが、次の機会と思っています。(いつになるかなぁ…)

 ●千利休⇒ 魚問屋の息子から天下一の茶人へ

信長、秀吉という2人の天下人に仕え、茶道千家流の始祖となった“茶聖”千利休。

本名は田中与四郎、号は宗易(そうえき)。~大阪堺の魚問屋『ととや』に生まれる。

当時の堺は貿易で栄える国際都市であり、京の都に匹敵する文化の発信地。

堺は戦国期にあって大名に支配されず、商人が自治を行ない、周囲を壕で囲って浪人に警備させるという、いわば小さな独立国だった。~多くの商人は同時に優れた文化人でもあった。

父は堺で高名な商人であり、利休は店の跡取りとして品位や教養を身につける為に、16歳で茶の道に入る。

18歳の時に当時の茶の湯の第一人者・武野紹鴎(じょうおう)の門を叩き23歳で最初の茶会を開いた。

1568年(46歳)、活力に湧く自由都市・堺に信長が目をつける。

信長は圧倒的な武力を背景に堺を直轄地にし、軍資金を差し出させ鉄砲の供給地とした。

新しいモノに目がない信長は、堺や京の町衆(町人)から強制的に茶道具の名品を買い上げ(信長の名物狩り)、武力・政治だけでなく文化の面でも覇権を目指す。

信長は許可を与えた家臣にのみ茶会の開催を許し、武功の褒美に高価な茶碗を与えるなど、あらゆる面で茶の湯を利用した。

利休60歳の1582年6月1日、本能寺にて信長が自慢のコレクションを一同に披露する盛大な茶会が催された。

そしてこの夜、信長は明智光秀の謀反により、多数の名茶道具と共に炎に散った。

後継者となった秀吉は、信長以上に茶の湯に熱心だった。

秀吉は茶会を好んだが、いかんせん本能寺で大量の名物茶道具が焼失したこともあり、自慢できる茶器が不足していた。

そこで利休は積極的に鑑定を行ない新たな「名品」を生み出していく。天下一の茶人の鑑定には絶大な信頼があり、人々は争うように利休が選んだ茶道具を欲しがるようになった。

利休は自分好みの渋くストイックな茶碗を、ろくろを使用しない陶法で知られる樂長次郎ら楽焼職人に造らせた。

武骨さや素朴さの中に“手びねり”ならではの温かみを持つ樂茶碗を、人々はこれまで人気があった舶来品よりも尊ぶようになり、利休の名声はさらに高まった

 ●秀吉との対立~切腹へ

利休と秀吉は茶の湯の最盛期「北野大茶湯」が蜜月のピークだった。やがて徐々に両者の関係が悪化していく。

秀吉は貿易の利益を独占する為に、堺に対し税を重くするなど様々な圧力を加え始め、独立の象徴だった壕(ごう)を埋めてしまう。

堺の権益を守ろうとする利休を秀吉は煩わしく感じる。

秀吉が愛したド派手な「黄金の茶室」は、利休が理想とする木と土の素朴な草庵と正反対のもの。

秀吉は自分なりに茶に一家言を持っているだけに、利休との思想的対立が日を追って激しくなっていく。

1591年!1月13日の茶会で、派手好みの秀吉が黒を嫌うことを知りながら、「黒は古き心なり」と平然と黒楽茶碗に茶をたて秀吉に出した。

他の家臣を前に、秀吉はメンツが潰れてしまう。

9日後の22日、温厚・高潔な人柄で人望を集めていた秀吉の弟・秀長が病没する。

秀長は諸大名に対し「内々のことは利休が、公のことは秀長が承る」と公言するほど利休を重用していた。利休は最大の後ろ盾をなくした。

それから1ヵ月後の2月23日、利休は突然秀吉から「京都を出て堺にて自宅謹慎せよ」と命令を受ける。

家臣団のトップ・前田利家は利休のもとへ使者を送り、秀吉の妻(おね)、或いは母(大政所)を通じて詫びれば今回の件は許されるだろうと助言する。

だが、利休はこれを断った。

利休が謝罪に来ず、そのまま堺へ行ってしまったことに秀吉の怒りが沸点に達した。

2月25日、利休像は山門から引き摺り下ろされ、京都一条戻橋のたもとで磔にされる。

26日、秀吉は気が治まらず、利休を堺から京都に呼び戻す。

27日、織部や三斎ら弟子たちが利休を救う為に奔走。

そして28日。この日は朝から雷が鳴り天候が荒れていた。利休のもとを訪れた秀吉の使者が伝えた伝言は「切腹せよ」。

この使者は利休の首を持って帰るのが任務だった。利休は静かに口を開く「茶室にて茶の支度が出来ております」。

使者に最後の茶をたてた後、利休は一呼吸ついて切腹した。

享年69歳。利休の首は磔にされた木像の下に晒された。

利休の死から7年後、秀吉も病床に就き他界する。

晩年の秀吉は、短気が起こした利休への仕打ちを後悔し、利休と同じ作法で食事をとったり、利休が好む枯れた茶室を建てさせたという。

さらに17年後の1615年。大坂夏の陣の戦火は堺の街をも焦土と化し、豊臣家はここに滅亡した。

 ●後日談

後年、利休の孫・千宗旦が家を再興する。

そして宗旦の次男・宗守が『武者小路千家官休庵』を、三男・宗佐が『表千家不審庵』を、四男・宗室が『裏千家今日庵』をそれぞれ起こした。

利休の茶の湯は400年後の現代まで残り、今や世界各国の千家の茶室で、多くの人がくつろぎのひと時を楽しんでいる。

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 画像は昨年11月に撮った千利休の屋敷跡(堺)です。

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